私は何を書くにしても色々と話が逸れていく傾向が非常に強く、書いているうちに面倒になってブログを更新しないということがしばしば起きる。どこかに行ったり、何かを体験した後に、そのことについて書こうとするとき、この現象がより頻繁に起こる気がする。原因を考えてみたのだが、「時系列に沿って記事を書こうとしていること」が原因だという気がしてきた。なぜそう思ったのかは後述するとして、まずは山菜採りの結果について書かせてほしい。そうしないと、この記事の更新も面倒になってお蔵入りする憂き目に遭うかもしれないからだ。
結果としては、狙っていたウドは見つからなかった。多分、時期が早すぎた。次に採りたいと思っていたタラの芽とコシアブラも採ることができなかった。その代わりに、山椒の新芽とこごみを採ることができ、ほかにも色々なことを考えることができた。これが時系列としての結果だ。
では、先述したように時系列に沿って書くことによる不都合についての考えも含め、私という人間の特性や、私がこのブログを更新するときに考えていることなど、色々なことについて書いていこうと思う。少し長い記事になると思う。あと、『山菜を採って考えたこと』という題にしているが、この記事で書く内容について山菜採り中に考えたことは事実であるものの、山菜そのものについてはあまり考えていない。そのため、山菜の情報が知りたくてこの記事にアクセスした人にはつまらない内容になるかもしれない。
さて、まずは、以下の文章を読んでいただきたい。
釣りが一向に上手くならないので、自然と海への足が遠のく。しかしながら、せっかく天気の良い春だし、最近車を手に入れて機動力が向上したので、山菜でも採り行ってみようかなという気になった。ウドを採ることに憧れているので、ひとまずはウドがよく生えているという南向きの山の斜面を目指すことにした。以前、サイクルコンピュータでヒルクライムコースに設定した道が「近畿自然歩道」、つまりハイキングコースになっており、自転車を押して5キロほど歩いたことがあったのが、その辺りが山菜を採るのに良さそうな気がしたから、その周辺を目指して車を走らせた。譲り受けただいぶ古い軽自動車で、走行中に内装のあらゆるところがけたたましく振動してうんざりするが、こういう遊びは車がないとちょっとしんどいので、あるだけで感謝である。うん。8月の車検のことは今は忘れようじゃないか。
目的地周辺に神社があり、階段の麓にちょうどいいスペースが空いていたのでそこに駐車させてもらった。桜が綺麗に咲いていた。これは比較的遅めに開花した個体なのか、まだ結構花が残っている。風が吹いて桜が流れる。桜の向こう側には小川が流れていて、山の方からはウグイスのさえずりが聞こえてくる。あまりに気持ちが良いから、桜の根元に腰掛けて少しぼーっとしていた。
これは私が書いた文章だ。もっと言うと、私がこの記事について書かれていることを「時系列に沿って書こうと思って」書いた文章である。この文章も、冒頭で触れた現象が起こり、筆が乗らなくなり、途中で止まってしまった。書いていて「上手くいかないな」と感じたターニングポイントは明確だ。桜の写真が登場して以降の部分がそれである。実際に私が体験した出来事としては、「ぼーっとして」から、杉林まで2キロほど続くクマザザに囲まれた道を歩き、棄てられて苔むした古タイヤや積み上げられた古い瓦や小さなスミレの花の写真を撮り、山椒の木を見つけて新芽を採り、タラノキを見つけたが新芽は先客に採られてしまっており、ウドを見つけようと道を逸れて急斜面を歩くも何も見つけられず、道を引き返しながら途中に見つけた沼地へ足を踏み入れ、カエルの鳴き声をしばらく聞き、沼の周囲を散策していると十数頭の鹿の死骸を見つけ、神社の前まで戻ってお参りをしようと階段を上っている途中に得体の知れない動物の糞(新鮮)を見つけ、神社に採った山椒の新芽をお供えし、また山の斜面を登り、何も見つけられないまま山を下り、車に乗って場所を変え、河川敷に移動した先で沢山のこごみを見つけて採取し、帰宅・・・というものだった。
客観的な事実をただ書くだけなら、このように時系列に沿うのが一番楽なのだが、そこに自分の考えを織り交ぜて書くとなると途端に難しくなる。今回、私の筆が止まる最大の原因となった出来事は、「得体の知れない動物の糞(新鮮)」を発見したことだ。
「糞のことをいつ書こう?」
「糞について私が考えたことを、記事のどのタイミングで投下すれば一番大きなインパクトを残せるだろう?」
そんなことを考えていると、いつの間にか思考が膨らんでしまって、糞のことそのものよりも、私自身の特性やブログの文体など、書きたい内容のスケールがどんどん大きくなっていき、全く書き進められなくなってしまった。断っておくが、私はふざけて糞のことについて考えていたわけではなくて、至極真面目に糞のことについて考えていた。
なぜ糞のことについて考えると思考が膨らんだのか、ということについてまず述べる。私が発見した糞は成人男性のにぎり拳くらいの大きさで、固まる前のコンクリートのような見た目をしていた。家に帰ってから野生動物の糞について調べていると、それはツキノワグマの糞にそっくりだったのだ。糞を発見するまでに十数匹の鹿の死骸(骨と毛皮だけになっていたが、鹿に違いなかった)を見ていたから、この周辺に猟師でも住んでいるのだろうかとか、熊が死体を漁りにきたりしないだろうかとか考えていた。そのせいで、数時間前には熊がいた場所に自らが足を踏み入れていたのだという事実に、余計に恐怖心を駆り立てられた。それと同時に自然界のシンプルさに驚かされた。人間が(少なくともこの日本という国においては)、「ここは私の土地である」ということを他人に対して主張するためには登記をする必要がある。登記をするにも素人がするには困難を伴うから、数十万円を支払って司法書士にお願いする必要も出てくる。私は不動産登記法については詳しくないが、少なくとも、登記もせずに空き地に座り込んで「ここは俺の土地だ!」と叫んだところで、あの人は少しおかしいのだろうか、と思われておしまいだろう。ところが山の中においては、巨大な糞を発見したり、獣の臭いがしてくると、こちらとしてはどうしても「向こう側のテリトリーに足を踏み入れているのだ」という気にさせられる。当然、警戒度も上がるし(上がったところで熊に出られたらどうしようもないのだが)、熊の糞を発見した辺りにはしばらくいきたくないなとも思う。自然においては、ただの排泄行為が実効力を伴う主張として成立しているのだ(被食者側としては主張どころか自らの居所を知らせる致命傷ともなりかねない行為であるという側面はあるのだろうけれど)。
私が物理的な現象の持つパワーに関心を持っていることは、ここ数年の間、身体的な活動をおろそかにして頭の中で考えてばかりいたことの反動であるということについては、過去の記事でも書いたとおりだ。しかし、やはり「書く」という行為においてはどうしても思考が先行してしまい、時系列に沿って自分が見たり聞いたりしたことについて書こうと思っても、「今はこっちのテーマについて深く書きたいから、この出来事について触れてる余裕がないな」という考えになり、上手くいかない。
私が一番書きたいのは(「書けるのは」と言った方が正しいかもしれない)、先述した苔むした古タイヤやスミレやカエルや鹿の死骸や熊の糞等の個別的な存在についてではなくて、それら全てを私自身というフィルターを通して認識した後に感じたことなのだろうと思う。森全体について書くことはできても、一本の木について詳しく書くことはできない。ブログ×時系列となると、どうしても写真を撮った順に記事を進めていくことになり、「その写真に写っている(個別的な)ものについて何か書かなければ・・・」と自分の不得意な領分に踏み込んでしまう。その結果として筆が進まないのだろうというのが今のところの仮説である。とはいえ、せっかく写真を撮るのだから、無理のない範囲で記事に載せたいとも思う。ひょっとすると、個別的な存在への注意力の低さを補ってくれているのがカメラなのかもしれない。
それでは、どうして過去には服や靴などの「モノ」についての記事ばかり書いていたのだろうか? その頃には、今よりきちんと物理的現象あるいは存在と向き合って、対象に注意を向けることができていたということなのだろうか? おそらくはその真逆で、モノについて何も考えていなかったからなのだと思う。当時の記事を読み返してみても(ひどい記事ばかりでかなりの苦痛を伴う行為である)、そのモノのどこがどう素晴らしいのか、という具体的な記述はほとんど見られない。「何となくいい」だとか「楽しめればそれでいい」だとか、印象批評にすら到達できていない有様だ。服や靴は好きだったが、何故それが好きなのかという説明が出来ないことについて、ブログ開設当時は悩んでいた記憶がある。そして、モノそれ自体についてしっかり語ることを止めて、露悪的と言われても仕方がないくらいの滑稽話や自虐ネタを挟むことで何とか記事を更新していた。それに伴い、乱暴だったり、奇をてらった言葉遣いや、様々な「イキり」が散見される。かつてブログによく登場した言葉として「ブチギレ」や「絶叫」などがあるが、今となっては何が面白くてそのようなワードをチョイスしていたのか、さっぱり分からない。ブログの方向性については度々考える機会があって、今回の記事をもってようやく進むべき方向性が見えてきたような気がする。方針を定めるにあたり、苦い顔をしながら過去の記事を読んで自分にダメ出しをしていったが、かなり下品なブログを書いていたなあと反省。
少し内省的になりすぎたので、ここら辺で写真を投下してクールダウンする。



朽ちていくものに目がとまった。それだけで写真に物語性が出るような気がするからなのか、こういう写真をよく撮っている。



芽吹き始めるこごみ、食べ頃のこごみ、群生するこごみ。茎の部分が濃い緑色をしていて、その断面が三日月状になっているのが同定のコツだそうだ。



木々。幸い花粉症ではないので、スギやヒノキをみても怯えることはない。むしろ、ヒノキの清涼感のある匂いは好きだ。2、3枚目は神社に生えていたヒノキ。かなりの巨木だった。名前の知られた神社ではないし、かなり荒れてしまっていたが、これほどの巨木が残っているあたり、古くから信仰されてきた土地だったのだろう。

イギリスの河畔風景に憧れがあるのだが、この風景にはそれに近いものを感じて撮った。

スミレ。野生のパンジーが表紙になっているレヴィ・ストロースの『野生の思考』をジャケ買いしてしまった身分として、花壇にパンジーが植えられていると注目するようになった。スミレとパンジーは仲間らしい。よく見ると中心部分が黒みを帯びるところなんか似ている。
せっかく貴重な時間を使ってブログを書くのだから、読む人にとっても、私にとっても意味のあるものを、楽しく書きたい。ということで、本記事中盤で言及した今後のブログの方針についてだが、まずは、「私が経験したことについて、しっかり真面目に考える」ということを大事にしたい。そしてその考えというのは、前述のとおりの私自身の特性により、どうしても総論的な話になってしまうため、読んだ人の「一体どんなものを見てそう思ったのか」という疑問(そういう興味関心が湧く記事を書きたいものだ)への、ある種の答え合わせとして、写真を登場させようと思う。
結構な制限をかけてしまうが、何事もルールを設けないことには高いクオリティのものを創ることはできないというし、しばらくはこれでやってみようと思う。
