『こんとあき』を読んで号泣

 林明子の絵本は『はじめてのおつかい』、『とんことり』が実家にあったと記憶しているが、『こんとあき』は読んだ覚えがなかった。『はじめてのおつかい』の絵が好きだったなあと思い、同じ作者のほかの絵本を調べていると『こんとあき』が目に留まった。なんだか表紙を見ただけで、これは泣くタイプの絵本だなと思った。気になって買って読んだ。案の定めちゃくちゃ泣いた。自分でも何でこんなに泣いたのかよく分からなかった。私は私生活で泣くことはほぼないし、物語を読んで泣くことも稀だ。ただ、泣くときは結構思い切り泣く。『こんとあき』を読んだときは嗚咽してしまったし、1時間ほど涙が止まらなかった。鼻水で鼻腔が完全に塞がり、そのせいか一時的に耳まで詰まってしまったほどだった。28歳の独身男性が薄暗い部屋で子供向けの絵本を読んでボロボロと泣いているのは、少しぞっとする光景かもしれない。

 

 読後に少し調べてみると、本作を読むと、子供だけでなく大人も結構泣いてしまうことが多いようだ。自分が何でこんなにも泣いてしまったのかを考えるのが楽しそうだったので、理由を探ってみた。ネットで感想を漁る限り、あきがピンチを乗り越えたくましさを見せる場面だとか、辛い思いをしているのに「だいじょうぶ」と気丈に振る舞うこんの健気さとかに泣いている人が多いようだった。私の場合は、それらと重なる部分はあるにせよ、若干ずれているかもしれない。

 

 私は喪失感により泣いたのだと思う。

 

 以下は感想だ。

 

 

あらすじ

 産まれてくる赤ん坊のおもりのために「さきゅうまち」からやって来た、きつねのぬいぐるみの「こん」。こんを作ったのはさきゅうまちに住んでいる「おばあちゃん」(原作で名言はされていないが、多分そうだろう)。おばあちゃんは、産まれてくる赤ん坊の祖母に当たる。こんは、さきゅうまちから離れた町で赤ん坊の誕生を待つ。やがて赤ん坊が産まれ、「あき」と名付けられる。こんとあきはいつも一緒に遊んだ。そのうち、あきは大きくなり(たぶん5~6歳くらいだろう)、こんは右腕の縫い目が綻んで中の詰め物が見えてしまうようになった。こんは、さきゅうまちに出掛けておばあちゃんに腕を治してもらうと言い、あきはそれに着いていくことにした。2人が電車に乗ってさきゅうまちへ向かう途中、色々なアクシデント(こんが弁当を買いに行ったまま電車に戻ってこない、こんの尻尾が電車のドアに挟まれる、こんが犬に連れ去られて砂丘に埋められるなど)が起こるも、2人は無事におばあちゃんの下へ辿り着く。こんは尻尾と右腕を治してもらい、ついでに「できたてのようなきれいなきつね」に戻った。こんとあきはおばあちゃんの家に2泊した後、さきゅうまちから家へと帰る。「よかった!」

 

「こん」という存在とその役割

 こんはきつねのぬいぐるみだ。ぬいぐるみだが、動くことも喋ることもできるし、意思や感情も持っている。その点は人間と変わらない。だが、ぬいぐるみとしての要素がはっきり明言されている部分もあれば、読んでいるうちにおぼろげに見えてくる、あるいは、勝手にそう解釈してしまう部分もある。

 まずは明言されているぬいぐるみ要素について触れる。あきは人間として成長するが、こんはぬいぐるみとして劣化するということだ。

「こんとあきは、いつも いっしょに あそんで、あきは だんだん おおきくなりました。ところが こんは、だんだん ふるくなりました。」(林明子、『こんとあき』、福音館書店、6P)

 こんが古びていくことは、物語の進行上でも重要な役割を担っているし、読者の感情を揺さぶるという点でも効果が大きい。とはいえ、犬や猫、人間だって月日が流れればいつかは死ぬ。色即是空。形あるものはいつか壊れる。古くなる(≒老化する)ことそのものは重要ではない。重要なのはこんが「ぬいぐるみとして」古びていくということだ。本作にどこか物寂しさや切なさを感じるという人は、おそらくこの点に着目していると思う。

 

 では、ぬいぐるみという存在について、そしてそこから浮かび上がってくるぬいぐるみの役割について考えていく。

 

 手元の国語辞典では、ぬいぐるみは次のように説明されている。

「外から縫っていって中の物を包むようにすること。そう作った物。特に、綿などを中に包んで動物などの姿に作ったおもちゃ。」(岩波国語辞典 第8版)

 私はぬいぐるみに傾倒した経験はないが、ぬいぐるみを買ったことは2回ある。1回目は小学校の修学旅行のときだ。水族館へ行き、お土産コーナーにあったウミガメのぬいぐるみを買った。当時、家でイシガメを飼っていたから、カメのぬいぐるみが余計に魅力的に見えたのもしれない。2回目は彦根観光にいったときに買ったひこにゃんのぬいぐるみだ。紐を引っ張るとバイブレーションで動く。私はどちらのぬいぐるみも「かわいい」と思って購入した。

 

 多くの人間にとってぬいぐるみはかわいいものだろう。それはぬいぐるみが愛玩のために作られるものだからに他ならない。有機的な存在である動物がモチーフとされることが多いのもそのためだろう(素材との相性ということも考えられるが)。動物やアニメのキャラクターのぬいぐるみはいくらでも思いつくが、コップや机、ジェット機やタンカー船のぬいぐるみというのは見たことがない。ぬいぐるみを愛玩する場面を考えると、ぎゅっと抱きしめたり、枕元に並べて夜を共にする、といったシチュエーションが浮かんでくる。こういう場面にジェット機はやはりしっくりこない。動物は動物でも、写実的なぬいぐるみというのもあまり見ない気がする。あるにはあるのかもしれないが、あまり写実的になると、それは触って楽しむぬいぐるみというより鑑賞する工芸品という性質のものになる気がする。それにあまりリアルにすると多少グロテスクに感じる部分も目についてきそうだ。

 

 ぬいぐるみとしての愛らしさを追求しようとすると、デフォルメする必要があるだろう。モデルである生き物から「かわいい」要素だけを抽出する。キャラクターのぬいぐるみであれば最初からデフォルメされているから話が早い。

 

 つまり、ぬいぐるみというのは、人間が、人間に対して「かわいい」という感情を抱かせるために作った、愛おしさの理想像として被造物である。「かわいい」の意味が曖昧と感じる場合は、自然科学的な観点から考えて、「人間にオキシトシンを分泌させ、幸福感を与えるため」と言い換えてもいい。

 

 この点、こんはぬいぐるみのイデアといってもいい存在だ。こんはとにかくかわいい。私が本作を衝動買いしたのは、表紙のこんに一目惚れしたのも大きかったと思う。こんは動いたり喋ったりはできるが、人間ほど表情豊かではない。シチュエーションにより口の開き具合に差は出るが、真っ黒な目はいつも同じだ。にもかかわらず林明子の巧みな技量によって実にいきいきとして見える。どうやったら色彩のみでこんなにも表面のふかふかした毛羽立ちを表現できるのだろう? ちなみに、あきが成長してからのこんは、最初のページに比べるとやや黒ずんで見える。こういう細やかな描写が、林明子の絵本が長く愛されるポイントなのかもしれない。

 

 紙面の存在ながら、私はこん以上に愛らしいぬいぐるみを見たことがない。思いつきもしない。こんの愛らしさに関しては、私は諸手を挙げて賞賛せざるを得ない。こんはただそこに存在するだけで、人を愛おしさでいっぱいにしてくれるだろう。これはもう、無償の愛だと言わざるを得ない。「存在するだけで」というのは言葉のとおりで、こんは何も人間のようにしゃべったり動いたりしなくても、現実世界でのぬいぐるみのような存在だったとしても、人を愛おしい気持ちにさせ、愛を提供してくれると思う。しかし、こんには意思も感情もある。

 

 ここに来るまで長くなってしまったが、次からは、こんに対して「私が勝手に解釈してしまったぬいぐるみ要素」について述べていく。

 

「ここに ずうっと すわっているの、もう あきちゃった。さきゅうまちに かえりたいなあ。おばあちゃんに あいたいなあ」(林明子、『こんとあき』、福音館書店、3P)

 冒頭で、こんは明らかに寂しがっている。多分、こんは望んでさきゅうまちを出たわけではないと思う。というよりむしろ、こんは、あきの産まれてくることが分かった時点で、「あかちゃんのおもり」をさせるためにおばあちゃんが作ったのではないかと思う。そう読んだ人も多いのではないだろうか。

 

 こんの内面は成熟した大人としては描写されていない。あきよりお兄ちゃん的な立ち位置ではあるが、生みの親であるおばあちゃんを思ってホームシックになるくらいには、幼い。そんなこんを、遠く離れたあきの住む町に送り込んで、赤ん坊のおもりをさせるなんて、ちょっとひどいとは思わないだろうか。こんが6歳くらいの人間の子供だったら児童虐待とも言われかねない話だ。そんな状況をすんなり受け入れてしまうのは、やはりこんが人間のために作られた被造物だからだろう。ここで、こんが意思と感情を持ったぬいぐるみだということが意味を持ってくる。一定の読者は私のように「意思と感情を持ったこんに一方的に役割を押しつけて、道具のように扱うなんて、ひどい」という気持ちになる。

 

 しかし、意思をもったぬいぐるみなら、仮にあきのおもりが嫌になったとすれば、役割を拒否してさきゅうまちに帰郷すればよいではないか、とも思える。が、本気でそう思える人は少ないと思う。少なくとも私はそう思えなかったからこそ泣いた。どこまでいっても、こんはぬいぐるみなのだ。人が人のために作った愛玩用の道具なのだ。だから、与えられた役割を自ら放棄することは許されない。無意識でそう考えていたからこそ、私はこんを思って泣いた。

 

 実際、物語ではどうかというと、こんは「あきのおもり」という役割をほとんど完璧にこなしている。遊び相手になってやり、出かける際にはエスコートし、あきを不安にさせまいと辛い状況でも「だいじょうぶ」と気丈に振る舞ってみせる。ただ存在するだけで無償の愛を提供してくれるこんが、意思や感情を持ってなお、完璧な愛情をあきに向けるのだ。それがかえって運命を決められて作られたぬいぐるみらしく思えてきて、読んでいて胸が苦しくなった。

 

 「ぬいぐるみとして」古びていくということは、物質的な劣化ということだけでなく、「役割を終える」という要素も含まれる。より悲劇的な読み方をすれば、時が経ちあきは思春期に突入し、古くなってボロボロになったこんのことなど見向きもしなくなるかもしれないとも考えられる。現実においては、後生ぬいぐるみを大事にしている人の方が少ないだろう。どうもやりきれない。

 

 ここまで悲観的にほじくり返して読む人は少ないかもしれないが、「いつかこんの役目も終わるんだろうな」くらいには思った人は多いのではないかと思う。

 

人間の問題

 ここで、少し私個人の話をさせてほしい。

 私は人間嫌いだ。もちろん幸運なことに仲良くできる人というのも数少ないながら存在しているし、完全に1人で生きていけるほど強くはないので、必要に応じて他人と関わり合いを持って生活している。ただ、基本的には「People hate people」の精神で生きている。人と関わるのはストレスの基だ。心ない言葉を浴びせてきたり、うるさく喚いたり、道の途中で立ち止まったり、つまらない話を延々続けたり、券売機を15分も操作したり、人の物を勝手に使ったり、不必要にこちらに踏み込んできたり、臭かったり、挙げればキリがない。自分を含めて何という嫌な生き物なのだろうと思う。

 

 だから、こんが人間であるあきにあれだけ優しくするのに納得がいかなかったのだ。そのうちこんを捨てるかもしれないあきに、どうしてそんなに健気にしてやるのか。存在するだけで十分なこんに、意思や感情まで与え、その癖に降りることのできない役割を一方的に押しつけるような真似をする人間という身勝手で醜い生き物に、どうしてそう優しくしてくれるのだ? 

 

 こんが与えてくれる崇高とも言える愛を、受け取ることのできる資格を人間は持っていない。愛を与えることだけを強いられる存在に、愛を与えられる側、かつ、与えることを強いている側が鈍感でいる。原作に書いてある記述そのものの範囲をだいぶ超えてしまっている感はあるが、私はこの構図がどうにも許せなかった。

 

結論

 というところまで考えて、ふと思った。物語におけるあきは、こんの愛を受け取る資格があるではないか。

「ああ、あかちゃんだ! あかちゃんて、こんなに ちっちゃくて、こんなに かわいいなんて、しらなかったな」

 こんは うれしくて、むねが どきどきしました。(林明子、『こんとあき』、福音館書店、5P)

 冒頭で、産まれたあきを初めて見たこんはこう言っている。あきも、こんに無償の愛を与えているのだ。私が本作で特に美しいと思った場面がある。こんの尻尾が電車のドアに挟まれてしまい、次の停車でようやくドアが開き、車掌がこんの尻尾に包帯を巻いてくれた後の場面だ。あきが、こんと同じように純粋な存在であることが分かる場面でもある。

「もう、ずうっと すわっていようね」

 こんとあきは、ずうっと すわって、まどのそとを みていました。(林明子、『こんとあき』、福音館書店、19P)

 2人は窓側の座席に並んで、海と山を眺めている。ずっと座っていようというのが、こんとあきどちらの台詞なのかは分からない。多分あきが言ったのだとは思うが。いずれにせよ、2人の目的はさきゅうまちに住むおばあちゃんにこんの綻びを治してもらうことなので、「さきゅうまちに着くまでは、ずっと座っていよう」という意味での発言だと捉えるのが合理的だ。だが、私には「もうこのままずっと一生座っていよう」という意味に思える、というか、私自身がそうしたいと思うからそのような意味と捉えてしまうのかもしれない。

 

 何かをずっと眺めていられるのは子供の特権ではないだろうか。大人になってしまうと何かとやることが多い。何かひとつのことにかかりきりになるということは難しい。それは時間的余裕という意味においても精神的余裕という意味においてもそうだ。絵本で2人がそうしているように、山と海を見ている状況を考えると、私なら「今、自分はこの景色に感動できているか? 素晴らしい時間を過ごせているか?」などと考えてしまいそうだ。そうして思考の迷路というか陥穽みたいなものにはまってしまい、景色を見るどころではなくなる。だが、こんとあきはきっと景色を「純粋に」見ていると思う。ずっと感動しっぱなしなのかもしれないし、あるいは何も考えていないのかもしれない。本当のところは私には分からない。私はもう、何かを「ずうっと」見ることはできなくなってしまったからだ。

 

 私が小さい頃、祖父の家で飼われていたホオジロを何時間もずっと眺めていたことがある。祖父のことは好きだった。美味しいものを食べさせてくれたし、色々なところに遊びに連れて行ってくれた。だが、借金だの倒産だの色々なことがあり、結局、私の親族は気持ちにおいて完全に離散した。祖母が病に倒れ、熱心に祖母を看病する私の母に対し、祖父はひどいことを言ったりもした。私は祖父を憎むようになった。今でも許していない。もうすぐ祖父は死ぬだろうが、葬式に行きたくはない。

 

 私はこんの愛を受け取る資格を失ってしまった。

 

 この絵本は掛け値なしに素晴らしい作品だと思う。

 

 だが同時に、愛を与える側(こん)の純粋さを描くことで、愛を受け取る側(人間)の心の透明度を暴き出してしまう恐ろしい本でもあると思った。